歌会について(時差歌会の感想)

 

 先日、千種創一さん主催の「時差歌会」をスペース上で行う、というこころみに参加させていただいた。メンバーは千種さん、かみしの(上篠翔)さん、魚村晋太郎さん、私の四人。「歌会へ行くのに躊躇している人たちにとって参考になるような会にしたい」とのことだったので、いろいろ考えながら臨んだ。歌会の様子については千種さんがこちらの記事に記録をまとめてくださいましたので、よければご覧ください(千種さん本当にありがとうございます)。

 

 歌会に出たあといつも思うのはひとつだけ、「ひとにものを伝えるのはむずかしい」ということだ。短歌をつくるより、歌会でうまく話すほうがはるかに難しい。

 

 歌会にはじめて触れる方もいる可能性を考慮して、今回は歌会でよく使う用語や「歌人だったらわかる便利なことば」みたいなものはあまり使わないようにした(たとえば「(作中)主体」とかは特に避けた、というか途中言いそうになりちょっと慌てた)。千種さんから事前に「初句」「上の句」「一字空け」のような基礎用語だけ解説を視聴者向けにツイートしていただき、その状態からのスタートだった。そういった部分以外でも、やはり「話すこと」「伝えること」のむずかしさがずっとつきまとう。

 歌会において千種さんの歌【たくさんのものをすてたね 部屋はいま日食のむらさきに冷えてく】を評したとき、わたしは「具体性が読み取れず、何のシーンを描いているのかわからなかった」と言った。しかし私の歌会中のメモには「片づけをしている、引っ越し?」「片づけ終わって広くなった部屋を眺めている」としっかり書いてあった。要するに、その歌を読解する中で一度はその読みにたどり着いたのに、伝えることができなかった。歌会がひととおり終わり作者発表と解題をおこなう際、作者の千種さんが「引っ越し」というワードを口にしたとき、頭をかかえてサイレントで「あ~」とうなだれた。わたしがもしそれを指摘できていれば、議論が変わったかもしれない。もっとおもしろい読みが出たかもしれない。そう思った。

 

 緊張やテンパり、自信のなさというような、リアルタイムで「話す」ことに付随するあれこれがこういった伝達ミスを引き起こすのがわたしにとっての歌会の常で、何年経っても完璧に話せたことは一度もない。しかしこの文章を書きつつ、ハプニング性こそが議論を掻きまわす契機になるのかもしれないという考えも頭のなかに浮かんでいる。
 また、歌会はひとりでやっているものではないので、自分で1から100まで言い切ってしまう必要もない。余すところなく自分の考えを伝えるという姿勢はもちろん大切だが、その場にいる人の様子をみつつ、ひとりひとりが細胞としてひとつの働きをおこなうように、ひとつの歌を解き明かしてゆくのもひとつの方法だと思う。なによりも「うまく話さないと」という気負いがいちばん緊張のもとになる。自分がこれから歌会を主催する際にひとつ気をつけるならば、気負わない、その場の全員でひとつの歌を全方位からあばくという方法をやりやすいように、そういう空気づくりをいちばんに心掛けたい。

 

 就活のグループディスカッション対策について話しているみたいになってきてちょっと気持ち悪くもある。でも、自分も昔は歌会がとても怖かったし、その気持ちは多分「議論が怖い」というところから来ていたと思うのだ。自分の考えを否定される、甘さを指摘される可能性が、他人の発言によって自分の至らなさを自覚するのが嫌だった。歌会のことをバトルフィールドだと思っていた時期もあったが、いまはあまりそう思わない。自分が話すことばかりに集中するより、人の評を聞こうという気持ちもかなり大きくなった。

 今回の時差歌会では何度かご一緒したことのある方もいたし、書き手としてかなり昔から尊敬している方々との機会だったので、特に信頼のあらわれとして「委ねよう」という気持ちが特に強かった。いつも知っている人と歌会ができるわけではないので、うまく調節ができないときも勿論ある。しかし、その場にいて、各々の評を聞いているうちにチューニングが合ってくるときがある。そういう、時間が経つうちに変わってゆく生っぽさみたいなものが、体験が楽しくて自分は歌会に出ているなと思う。

 


話が取っ散らかってきたので、ツイッターで募集した歌会に関する質問にこたえようと思います。ふたつ来ていました(お送りいただきありがとうございました!)。

 

質問その1:初めて歌会を体験し、楽しかったです。お尋ねしたいのは、提出された歌で全く歯が立たなかった・理解するとっかかりを見出せなかったものについてコメントを求められた場合、どのように応答するものなのでしょうか?

 

→ どうしてもコメントしづらいと思った歌には、なぜわからないか、どこがわからないかを説明することが多いです。時差歌会にてわたしが提出した【こころさえあればどこでも果てになる薔薇が外側から枯れてゆく】に対して「わからね~!」というスタンスでいま話すとすれば、「“こころ”と言われても具体的な感情がわからなくて、自分には意味が取れなかった」とか、「“薔薇”はどこから出てきた?どこに咲いているもの?」とか、いくらでも言ってしまえます(自分の歌だからなのですが)。
わからないときは、とにかく「わからない」というスタンスを崩さないようにしています。作者に対して失礼に値するかもしれない、批判だと受け取られるのが怖いという気持ちも勿論あるので、慎重さは忘れないようにしています。「わからない」と素直に伝えるのは、自分の歌がどう読まれるのか反応を知るために歌会に出席している人もかなりいることを知っているからです。現にわたしは評合戦を楽しむよりも、自分の短歌がどういう言葉で語られるのか見たくて歌会に出ていることが多いです。
少し話がずれますが、自分の歌に対して「わからない」と言われたときは、評者が普段どういう歌の読解なら得意なのか、どういう歌をつくる方なのかを思い出しつつ、その「わからなさ」が改善すべきものなのかどうかに意識を向けています。修正しなくてもいい場合もあるので、「わからない」という意見もとても参考になるものだといつも感じています。
 そして、これは感想部分でも書きましたが、他人にゆだねるのもひとつの手です。「ちょっと自分には読み込むことがむずかしかったので、他の人の意見も聞いてみたいです!」というフレーズをわたしは使います。場の議論を聞いていると色々ひらめくことが多いので、時間があれば自由発言の際にできるだけもう一度話すようにしています。とにかく、「読み解けなくて作者に失礼だったかも……」という気後れは無用だと思います。


質問その2:先日の公開歌会を拝聴いたしました。安さんは(おそらく)目上のメンバーの方たちに囲まれて通常の歌会よりも緊張したなどのお気持ちはありましたか?(いち見学者としては、全員のかたの短歌が好きなので至福の時間でした)

 

→今回に関しては、先輩方と肩を並べていることよりも、沢山の方に自分の発言を聞かれている面でかなり緊張しました。上でも少し書きましたが、実は魚村さん・千種さんとは歌会を何度かご一緒させていただいたことがあり、ちょっと慣れているのもありました。
 目上の方の歌を評するとき、変なことを言ってしまうかもしれないという緊張よりも、「この方々の歌のよい読者でありたい」という気持ちのほうが最近は勝るようになりました。実は歌会にはじめて出席して9年経っておりかなり歌会に慣れてしまっているので、参考にならなければすみません。
 目上の方が多い歌会というより、初めてお会いする方が多い場のほうがわたしは緊張します。また、目上の人がいたとしても尻込みする必要はない、といつも自分に言い聞かせています。作者を隠してわざわざ歌の話をしている訳だから、気をつかいすぎるよりしっかり意見を言うほうが、場に貢献できるかなと思っています。
また、なかなか発言しにくいな~というときは、指名されるまで、あるいは場があたたまるまで大体静かにしています。わたしは歌会においてできるだけ失敗したくない、痛い目をみたくないと思ってしまうので今でもそうします。人によってエンジンのかかりかたも、話し方も違うと思うので、緊張しても発言数が少なくてもなんでもいいと思っています!

 


参考になったかわかりませんが、今回の公開歌会をきっかけに、いつも思っていることを連ねてみました。これを読んでまた疑問がありましたら、もし機会があればわたしにぶつけてください。わたしもまだまだ考えたいと思っています。興味がわいたらぜひみなさんも歌会に出てみてください。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。